ルーマニアの「蝶々夫人」
まず、びっくり!でしょう?
「バタフライをやりませんか?」って、信じられないようなお話を戴いたところから、私にとっての楽しくて苦しい一大イベントがスタートしました。
最初は、嬉しいばかりでしたが、次第に大きな不安と重圧が私をくるみ込んでしまうのに、たいした時間は要しませんでした。
それと言うのも演目が「蝶々夫人」であったということ。
蝶々さんのアリアは演奏会では何十回と歌ってきましたが、オペラとなると…アリアじゃない部分の方が圧倒的に多いですもんねえ。全く未知の世界へ突入!って感じですし、これまた〔長い〕です。
2時間ずっと歌いっぱなしです。その上、1幕はレジェッロ(かろやかなソプラノ)、2幕はリリコ(叙情的なソプラノ)、3幕はドラマティコ(ドラマチックな表現を擁するソプラノ)と変っていかなくてはならない、かけあいが多くてひとりでは練習しにくい、などなど
不安の要素はますます色濃くなっていくばかりです。
その不安通りに、「蝶々さん」は本当に難しいです。
そして し・ん・ど・い 。
歌えば歌うほど自分を痛めつけていくようなことが続き、自分自身の肉体との闘い、迷いとの闘いが、どんどん私を追い詰めていくのです。
その他の心配も山盛り。
「言葉のこと」
「劇場内での人間関係」(わたしって気が弱いし…)
「たった2回の通し稽古だけで、私はうごけるの?」etc.....
でも、結局なるようにしかならないと割り切って、ついにルーマニアに行く日を迎えました。
ヤシ市は、ルーマニア全土の丁度北東に位置する、旧ソ連との国境に面した街です。
首都ブカレストから一日一本、インターシティと呼ばれる特急鉄道で、果てしない平原の中を地平線とともに突っ走っていくと、約5時間でこの美しい街に到着します。
ルーマニアの文化発祥の地であり、多くの文化機関(大学、劇場、ミュージアムなど)の数は、他都市を圧倒して、伝統の薫り漂う古き都です。その中心街の真ん中あたりに テアトル・ナショナル(国立劇場)があります。
ヤシに着いて3日目に、主役の人たちの 思い出し稽古(12月に公演が1度あってから、それ以来音楽稽古をしていないので)があり、先ずそれを見学させてもらいました。その時のムードは余り好意的とは言えないもので、
「あらあら大変よ。蝶々さんの楽譜とあたしたちのと違うわよ。」
「彼女は楽譜に書いてあるト書きの意味はわかっているのかしら?」
と、少し子ども扱いをされてしまいました。
(特に スズキのおばちゃんは強烈だったなー。お名前は エヴェデリカ・フィリポービチ とおっしゃって、カルメンなんかも歌う立派な声のメッツォ・ソプラノだったんですけど、 「io sono suzuki (私がスズキよ)」 と手を差し出されて 目が合ってしまったときには びびっちゃいました。)
2日後 いよいよ音楽稽古の日が来ました。今度は 前回休んでいたピンカートンも姿を現し、 ゴロー、ボンゾーなど キャストの殆どが参加しての指揮者との音楽合わせです。
初めはお互いに少し探りあいの様子でしたが、練習が進んでいくにつれて、「プッチーニの音楽」 と 「“バタフライ”の中で生きる人たち」 の ただそれだけが稽古場に充満していくのが分かりました。(キザな言い方ですが…)
そして3時間の稽古のあと、キャストみんなで手を取り合い、お互いの成功を信じて声をかけあうことができたのでした。
「ブラーボ!素晴らしいね。明日からが楽しみだよ」 と ピンカートン。
「お嬢ちゃん、外は寒いから 暖かくして帰らなきゃ。 蝶々さんは大変なんだから、ホテルに帰っても あまりおしゃべりしないでね」 は、あの、スズキのおばちゃん。
これで一気に小畑佳子は生き還り、広島にいる時よりはるかにリラックスした状態で本番を迎えることができたのです。
オペラ座の人たちは陽気で明快。
彼らの顔を見ればおよそ何を考えているか分かりますし、その日の調子も分かります。
また、彼らも私を分かろうとしてくれます。
それは本番の舞台の上でも同じでした。
私は膝を痛めていて、稽古の2回と本番以外は 膝をつくことも 立ったり座ったりもできない状態でしたが、 共演者の誰にも そのことを言ってないのに、立ちたいところでは皆が手を貸して立たせてくれます。 そして正座の場面では 座布団もどきのクッションを二枚重ねてくれたり、何も言わなくても 目を見れば全て理解したように私を誘ってくれるのです。
二幕を 半ば過ぎた頃には殆ど痛みを忘れていました。
足のことだけではなく、彼らの心の目は多くを見渡していて、決して 「自分が…」 ということがなく、 「マダム・バタフライ」 の中のそれぞれの役を 相手の領域を侵すことなくそれ以上の愛情を以って私に接してくれました。だから 余所者のわたしが、『主役』 になり得たのだと思います。
今までのどの舞台よりも 自由に楽しく、哀しく、蝶々のように飛びまわれたのは、『音楽を通じてお互いを大事にする気持ち』 と、 『同じ意識をもって 何かを創り上げようとする緊張感と充実感』 が 絶妙のバランスで保たれていて、 そのことが私を いつもよりずっと素直で優しい人間にしていたからだと思うのです。
3幕、最後のカデンツで急速に幕が下りると、倒れている私の側にピンカートン、スズキ、シャープレスのみんなが口々に 「ブラーボ、ブラーボ!」と叫びながら駆け寄ってきました。
そして再び幕が上がると 劇場全体が ゆらめいていました。
観客の皆さんは全員立ち上がっていらっしゃる!!
オケピットからも沢山の拍手が。
「この公演を こんなにも喜んで下さってありがとう。」 感謝に締めくくられた、大切な思い出となりました。
この「蝶々夫人」公演で 私が与えられたチャンスは、いろいろな偶然や幸運が招いたことかもしれません。
でも、 このチャンスを呼び寄せるのは 自分自身だ、ということも おぼろげながら心に記した、私の宝物のような、出来事でした。!!!
掲載=2000/10/15